死ぬべき時に死ぬ

50代 スキンダイビング 旅 ガーデニング メイク 躁鬱病

海棠の花が咲きました。

桜より一回り大きく、咲き始めは濃い桃色ですが、咲き進むに従って、白っぽくなる清潔感のある花です。

リンゴの花も好きです。

だいたいバラ科の花は綺麗ですね。


今現在、躁鬱を患っているとはいうものの、身体にはこれと言って病気はなく、二人の息子は元気に、立派な社会人になってくれ、私は職を探さなければならないが、幸せだと思っています。

それでいて、というかそれだからか、私にはこの世に未練がありません。

私の誕生はその時からもう苦難の連続であったし、思春期には耐えかねて自殺未遂のことも何度か。

一生懸命生きてきた、と思っています。

人の道に外れず、もう、精一杯、生きました。

これ以上、人生に求めるものはありません。

未練があるとしたら、やはり子供のことでしょうか。

今年26になりますが、まだ世知に足らないことはあるでしょうから、他に身よりのない二人を置いて今逝くとしたら、それは酷ではないか、とは思います。

死ぬことは怖くはない、ただ寂しい、とは思います。

死んだからって、夫に逢えるわけでなし、子供とのさよならは、寂しい。

でもそれはいつかはやってくる。

私は信長が人生50年と謡った50をとうに過ぎ、日本と言う豊かな社会で、膨大な資源を消費して生きてきました。

これ以上、なにを求めるでしょうか、国が違えば寿命は50年か、それよりずっと短い場合の方が多いのに。

昔、高齢者介護の仕事をしていた時、84歳の女性が肺炎球菌の予防接種をしてきたからあと5年は大丈夫だと、ニタリと笑うのを見たとき、私はぞっとしました。

なんと欲深いのだろうか……

豊かな国が生んだ、醜い歪みです、こういえば私を非難する人も少なくないでしょうが、それでも私はきっぱりそう思います。

私が運動に執着するのは、使った資源は有用に使用したいから、という理由もあります。

貯めこまず、使い果たして、空っぽになって、一日を終えたい。

もし、目が覚めることがなかったら、からっぽで死ねるのだから、本望です。

五木寛之さんが、僕は医者にはいかない、と書いておられました。

人間も動物、治るものなら治るし、治らなかったらそれまでだ、と。

私も医者に行かない時を決めています。

それはもう、そんなに先のことでもありませんが、怖くはありません。

それだけのことをして、生きてきた。

それだけのことをして、生き抜いてきました。

その時がきたなら、だまってチケットを受け取って逝くだけです。

と、言いながら白髪がどうの、スキンオイルがどうの、恋人もいたりして、そこはまあ、生きているうちは頑張ろうと、オホホ、そんなもんです、オホホ(⌒∇⌒)

コメント

  1. goodwavetomo より:

    こんばんは。私も似たような気持ちを抱いて日々生きています。死は生の延長線上にあるものと思っていて。長生きすることだけが目的化している生き方って何か気持ち悪いなと、俺もそう思います。

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