夫が亡くなったのは突然のことで、電話で知らされました。
当時、単身赴任中のことで、彼は誰に看取られることもなく、一人で逝ってしまいました。
息子と三人で現地へ向かい、警察署に安置されていた夫と対面した時、これまでの確執が吹っ飛び、彼の頬をなで抱き着く自分がいました。
しかし、もう、彼は応えることはない、私は一瞬ののちに踵をかえ立ち去りました。受け入れるしかないんだ、私は受け入れたんだ、そんな気持ちであったかと思います。
主人とは、私が新潟へバイトに出たときに知り合いました。
10歳年上の彼は、たいそう端正な顔立ちと長身で、女の子に人気があったものの、気難しく、少し知り合うと女の子たちは諦めていました。私はというと、当時は恋人がおり、たいして彼に興味はなかったのですが………私の遠距離恋愛に幕を下ろすと同時に、彼から近づいてくるようになりました。私はいわゆる毒親に育てられたことから、気難しさには慣れており、受容できたことも、その後、一気に結婚まで進んだ理由かもしれません。
料理人であった彼の、才能、その繊細な才能を私は愛していました。
繊細な才能は、時折、心の琴線に触れる言葉も生み出し、私は魅了されていました。
しかし、生活となるとからきし駄目な人で、とくに金銭感覚がなっておらず、借金を繰り返すことには、本当にまいりまいした。
子供が生まれると女性は変わっていくものですが、彼の方は変わりません。息子たちは双子であり、私は今でいうワンオペ育児家事を強いられ、あまりな苦しさと、将来の展望がないことからすでに、離婚を考えだしました。
そう、随分と長く、離婚をした方が…そんな生活をしていたのです。
また、優しくすると駄目になってしまう人であったことも私の苦しみでした、当然、彼のことは構わなくなっていきました。
亡くなって3回忌が終わりましたが、いまだに、彼が本当はどんな人だったのか、私にはわかっていません。
悪人だったのか善人だったのか、解りません。
思い出はたくさん。
まだ二人だけの生活だった頃、旅好きの私に彼はよく付き合ってくれたものです。ここに、あそこに、行きたいというと必ず、連れて行ってくれたものです。
私たちは男女の愛称はよかったけれど、人間としての相性は、どうやら最悪だったのかもしれません。
彼らしい亡くなり方であったとも思います。
息子と三人、彼が亡くなった部屋の片づけをしなくてはならず、私は息子にそんなことはさせたくなかったけれども、仕方がありません。
部屋に入ると掃除の後もなく散らかったまま、床には血の跡がありました。冷静になって今振り返ると、そうとうな吐血をしたのだろうと思われます。
大人になっていた息子たちは、わたしよりきびきびと動き、時間内に、荷物の片づけを終えることが出来ました、途中、次男がぼんやりと天井をみていたことを覚えています。
泣きじゃくる私を励まし、三人で写真を撮ろうと言ってくれたのも次男でした。
その後も借金の整理、賃貸マンションの解約、相続、と、山積みの問題を片づけていき、一段落したころ、適応障害の診断を受け、ひと月休職をすることになりました。
私に残ったのは、添い遂げられた、という感慨でした。
決して心の底から憎んでいたわけではないんです。
添い遂げ、後始末をしてあげることができた、それも息子たちの協力を得て。これ以上の供養はないと、思っています。
息子たちが生まれて、あまりな忙しさに、子供を抱いてぼうっとしていた私に、彼が、「大丈夫だよ、お母さんなんだから」、そう言って背中を掌でさすってくれました。
暖かかった。
人の掌ってこんなに暖かいんだ………
その後20数年の確執を耐えることができたのは、この時の掌の暖かさのためだったと思います。
私に会ってあなたは幸せだったかな。
最後くらいは役に立てたかな。
息子さんは、立派すぎるくらい立派に大人になりましたよ。
あなたに会えてよかった。
結局、いつかどこかで巡り合うことがあればまた、私はあなたに恋することでしょう。
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